
昨日、友人から年賀状が届いた。年の瀬にこうして手に取ると、今年の出来事がすべて静かに沈殿していくような感覚がある。ページを繰るように振り返りたくなる。でも、もう少し遠くから――一昨年から始めてみよう。
2022年は、私にとって大きな転換点だった。心身ともに疲れ果てて職場を離れ、そして今年、また職場に戻った。この二年間、自分や友人たちに何度も問いかけてきた。彼らは何を「好き」なのか、と。その「何か」は様々だ。仕事かもしれないし、住む空間かもしれない。絵を描くような趣味かもしれないし、子どもへの献身かもしれない。
それは、自分の心の迷いを映し出していた。私は本当に何が好きで、何を求めているのだろう。仕事から始まり、様々な趣味や得意な技術まで――得意なことが必ずしも好きなこととは限らず、その逆もまた然り。そして好きなことが、長く続けられることとも限らない。好きなこと、得意なこと、長く続けられること。この組み合わせはいつも人を惑わせる。
この数年、最も多くしてきたことは、探索することと、人生の目標を設定して達成することだった。その一つが、熊野古道を歩くことだった。この古道には五年前にも訪れたことがある。けれど二日目に道に迷い、結局は民宿の主人の車で終点まで送ってもらうことになった。以来、それは心に残る悔いとなっていた。
そして2023年、また友人たちと熊野古道を訪れた。季節の終わりに桜を追いかけながら、前回果たせなかったことを共に体験した。大雨の中で私を受け入れてくれたカフェの主人を訪ね、民宿で飼われているペットの羊と写真を撮り、道中では民宿の主人が用意してくれたお弁当を楽しんだ。
熊野本宮大社に辿り着いたとき、感動で涙があふれるだろうと思っていた。でも、そうはならなかった。人生の達成リストに一つチェックを入れた瞬間、そこにあったのは淡々としながらも長く漂う複雑な感情だった。喜びの中に、少しの迷いが混じっている。でも、志を同じくする友人たちと一緒にこれを成し遂げられたことは本当に幸せだった。もし一緒に熊野本宮大社に辿り着いていなければ、この複雑に織りなす感情を一生味わうことはなかっただろう。
この数年の様々な試みを通して、少しずつ自分が何者なのか分かってきた気がする。まるで小説を読み進めるように。ただ、その小説の主人公もまだ道の途中にいる。いくつかの謎が解けても、結末はまだ見えない。神倉書斎での滞在体験のように。旅行も、ボルダリングも、頭城の甘露咖啡でのとりとめのない話題も、私にとってはすべて自己探求なのだ。
2024年も終わろうとしている今、もう一度自分に問いかけてみる。私は一体どんな人間で、何が好きなのか。まだ簡単な答えは出せない。でも、二年前よりは確実に自分のことが分かってきた。
この年賀状を受け取ったとき、本当に心が温かくなった。友人のことも、とても嬉しく思った。彼にはもう一つの計画があることを知っている――自分でデザインしたTシャツを作ることだ。このデザインされた年賀状と、自分の興味を融合させた創作を見ていると思う。私たちは皆、自己を探す道の途上にいるのだと。その自己の輪郭はいつもぼんやりしている。けれど創造と実践を重ねる中で、私たちは少しずつ理想の輪郭に近づいていく。自分の体験に従って未来の輪郭を変えていくのか、それとも今の自分を変えて理想の輪郭に合わせていくのか。
そして、2025年という新しい章が始まろうとしている。次のページはまだ白紙のままだ。心の中に大まかな筋書きがあるかもしれないし、ないかもしれない。でもそれは、新しい旅を始めることの妨げにはならない。旅の途中、私たちは驚天動地の波に遭遇するかもしれないし、ただ道端の淡い青の花草を穏やかに眺めるだけかもしれない。
どちらにせよ、世界のどこかの街や村で再会したとき、また互いの物語を分かち合おう。