
「あの人、三つのスポンジの使い分けすらできないのよ!」彼女がそう言うと、同じテーブルを囲んでいた友人たちはみんな笑い転げた。
機能別に使い分けるため、我が家のシンクには三つのスポンジがある。油汚れのないコップ用、油でベトベトのお皿用、そしてシンクの掃除用だ。最初の頃は三種類とも違うデザインのスポンジだったから、どのデザインがどの用途なのか覚えられていた。
ところがある日、そのうちの一種類が使い切られてしまい、二つの用途で同じデザインのスポンジを使うことになった。それ以来、私はよく油汚れ用のスポンジでコーヒーカップを洗ってしまうようになった。
どれだけコードを書いても、どれだけ講演をしても、私はスポンジの使い分けができないのだ。
こんな風にお互いをからかい合うことは、我が家ではしょっちゅうだし、私もあまり気にしていない。でも、十年以上一緒にいても、相手を怒らせてしまうことはまだよくあるし、どう接すればもっとスムーズにいくのか、座ってじっくり話し合わなければならない時も多い。人と人との境界線は流動的で、時には相手が特に傷つきやすく、ケアが必要な部分を発見することもあれば、以前のやり方がもう合わなくなって変える必要があることに気づくこともある。人との付き合いは、ダンスを踊るのに似ている。いつも進んだり退いたりしながら、ちょうどいい距離を探していく。
昔受けた教育は、二元論に偏りすぎていた気がする。正しいか間違っているか、それだけだった。十代、二十代の頃は、物事には決まった運用ルールがあると思い込んでいて、私がすべきことは人を説得することだと考えていた。誰それの専門家が言っていることが正しいのだから、そのプロセス通りにやれば、最高の人間になれるし、最高の製品を作れるし、最高のソフトウェアエンジニアになれる、と。
それも一種の成長痛だった。多くのことを学ばせてくれたが、同時に自分や他人に対して厳しすぎる態度も伴っていた。優れたソフトウェアエンジニアとはどうあるべきかを定義し、すべてのブランチを繰り返し検証できる自動テストの書き方を研究し、同時に他人に何が正しいかを疑問視し、説得しようとし、気に入らないことを批判し、自分の基準に合わない働き方を責めていた。
気がつけば、自分も職場でずいぶん長く揉まれてきた。昔追い求めていたベストプラクティスは、今となってはどれも必ずしも役立つとは限らない。長い年月を経て理解したのは、文脈の重要性だ。物事が最終的な結果に至るまでに、何を経験してきたかも大切なのだ。なぜその人は近道を選んだのか? なぜここではわざわざ複雑なやり方をしているのか?
文脈を理解することで、共感も増した。物事が今の状態に至った経緯を理解すれば、不思議に思うことも減るし、何かを必ずこうしなければならないという頑なさも減る。
人間関係もそうだ。十数年一緒にいる相手でも、境界線を踏み越えてしまうことはある。そして、原則の境界線だって、大きく見れば完璧に整っているわけではない。すべての出来事にはその文脈があり、どんな良くない出来事も別の角度から見ればより良く見えることもあるし、一人ひとりの境界線は変動しているし、ある人と別の人との境界線の形も違う。
私たちの物理世界には統一された運用ルールがあるかもしれないが、これほど複雑な世界を構成し、人と人との関係や境界線にまで拡大すると、無数の変数があって、万人に通用する付き合い方のルールなんて見つけられない。
そんな時は、もう少し共感を持とう。
人と人との付き合いは、ダンスを踊るようなもの。ステップを乱して相手の足を踏んでしまった時は、舌をペロッと出して目をパチッとさせて申し訳なさを示し、そっと相手を支えながらリズムに戻ればいい。