完璧な答えの中に宿る問い―『言の葉の庭』と『PERFECT DAYS』の間にある疑問と解答

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今日、Chialinと話していて、なぜ私が『言の葉の庭』以前の新海誠を好きなのか、その理由に思い至った。おそらくあの頃の彼は、とても繊細で、誰もがあまり気に留めないようなことを表現しようとしていたからだ。例えば、幼い頃の心の中にあった、ある種の感情。その時はうまく理解できず、大人になった今でも、ふとした瞬間に思い出すと、あの頃の情景に囚われてしまう。

『言の葉の庭』の青年は、自分より年上の異性に惹かれ、『秒速5センチメートル』の小学生は、自分の気持ちを理解する前に、好意を抱いた相手と、想像もできないような遠い場所へ引き離され、『雲のむこう、約束の場所』では、約束を交わした後、音信不通のまま、成人を迎える。

これらのことは、大人になってから振り返れば、微笑みながら青春の思い出として受け止められるかもしれない。けれど、幼い頃の自分にとっては、まったく理解できないことで、心の中の感情や葛藤は、その時の人生における最も衝撃的な記憶だった。

この数日、記事を整理していて、かつての自分への評価を見つけた。

今回、ついに決心して、bloggerとmediumに書いた記事をすべて整理した。実際の引っ越しと同じように、このプロセスはいつも雑然として苦痛だが、十数年前に何気なく書いた記事を手に取ると、幼稚な自分が嫌いになると同時に、あんなにも無頓着でいられた彼を羨ましく思う。

実は、幼い頃の疑問のいくつかは、今でもまだ答えが出ていない。ふと思い出すことがあっても、どんな気持ちで向き合えばいいのかわからない。

新海誠の初期作品は、幼い頃に刻まれた衝撃と困惑を、数年の歳月を経て沈殿させた後、再び映画を通して伝えているようだ。そして、今もなお困惑している人々は、そんな繊細な心情に惹かれ、心を動かされる。

一方、『PERFECT DAYS』は、また別の側面の感情を表している。長年の思索を経て、毎日繰り返される日常の洗礼の中で見つけ出した、平凡で単調だけれど、この上なく美しい道。その小道を歩みながら、生活の中の美しいものを再発見していく。時折、過去の記憶を思い出して涙を流すこともあるけれど、また繰り返される日常に戻れば、気持ちを奮い立たせ、日々の生活の中にある美しい部分を見つけ続けることができる。

新海誠の困惑と、ヴィム・ヴェンダースの確信は、興味深い対比をなしている。前者は幼い頃の感情に囚われ、説明できない状況の中で、細部を超越した情景描写を通して観客を自らが築いた想像の世界へと投影し、その困惑を共有する。一方、ヴェンダースは確固たる答えを示しつつも、同時に自身の困惑も表している。

疑問であれ答えであれ、それは探求の一つの形だ。彼らはすでに、自分なりの答えの道を十分に歩んできた。私も、自分自身の疑問に答えようとすることが多い。決断を下すたびに、その選択が良いのか悪いのかわからない。

結局のところ、良い悪いなどないのかもしれない。それはただ、前へ進み続ける道なのだ。疑問と答えの間で、何度も自分を再定義し、丁寧に磨き上げて、自分がなりたい姿へと刻んでいく。

Yuren 2024年12月31日
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