
数ヶ月前、友人と紙とペンで書くことと、キーボードで打つことの微妙な違いについて話した。それからというもの、徐々にノートとボールペンを使ってメモを取るようになった。私には手書きを「取り戻す」という感覚すらない。なぜなら、そもそも始めたことがないからだ。高校生の頃に初めてノートパソコンを手に入れてから、手で文字を大量に書くことはほとんどなくなった。
このことは、数年前のある夜、母と私を育ててくれた何人かの叔母たちを食事の後ホテルまで車で送った時のことを思い出させる。彼女たちはずっと私の成長を見守ってくれていたので、話題は自然と子供の頃のことに戻っていった。私はもともと学校に上がる前は台湾語が流暢だった。台湾語は台湾人の大多数が話す母語である。しかし小学校に入学してから、教育環境が中国語(国語)を重視していたこと、あるいはクラスメートたちが主に中国語を使っていたことから、私の台湾語は徐々に下手になっていった。中国語は1949年以降、台湾の公用語となった言語である。
「あんた、外省人の子供じゃないの?」と、台湾語しか話さない親戚がよく私に冗談を言っていた。そしてこの「冗談」は徐々に親戚の間に広まっていった。台湾では「外省人」とは、1949年前後に中国から台湾に移住してきた人々とその子孫を指す。彼らは歴史的に中国語の優位性と結びつけられ、場合によっては台湾本省人とは異なる文化的アイデンティティを持つ集団とされてきた。台湾本省人である自分がそう間違えられることには、微妙な社会的含意があった。彼女に悪意はなく、ただの冗談だったのだが、次第に私は台湾語を話すのが嫌になり、その親戚の家に行くのも避けるようになった。なぜなら、少し話すとまたあの「外省人の子供」という言葉が出てくるからだ。
それ以来、私の台湾語は上達することはなかった。
もちろん、私の英語も大して上手ではなかった。幸いなことに、大人になってから家庭教師の先生が面白く教えてくれたおかげで、最終的には少なくともコミュニケーションが取れる程度にはなった。これで言語は学べるものなのだと実感した。そして今はまた日本語を学び直している。難しいけれど、少しずつ進歩している気がする。
台湾語が下手なことに加えて、もう一つよく言われていたのが「字が汚い」ということだった。だから高校生の頃、自分専用のノートパソコンを初めて手に入れてから、無意識に手書きを避けるようになった。それから二、三十年にわたってキーボードで様々なメモや文章を書く人生が始まった。タイピングはすでに内面化された思考方法となり、意識とともに徐々に展開していく、自分自身との対話の方法となっている。
しかしこの数年、ノートを取ることや書くことについて様々な研究をした結果、紙とペンで書くことが思考に与える影響について、多くの人が言及していることを知った。これが、再び紙とペンで書くことを検討し始めた理由だ。
最終的に、私は新しいおもちゃを買った──電子ペーパーノート、デジタルと手書きの間に架け橋を作る製品だ。
それを使って数週間日記を書いてみると、日記の文章量がどんどん長くなっていった。まるでこの数十年間書いてこなかった分量が、ゆっくりと染み込んできたかのようだ。もちろん、私は三日坊主な性格なので、これを続けられるかどうかは長期的な観察が必要だ。
しかし少なくとも今は、書くことを「取り戻す」感覚を楽しんでいる。書いている時の連続感は、確かに考えを行間で咀嚼し、整理し、熟成させてくれる。キーボードで打つ時のリズミカルで区切られた感覚とは異なるが、どちらも異なる思考方法なのだ。
振り返ってみると、幼い頃の私はその時点で抵抗する方法を見つけられなかった。「拒絶」だけが唯一の出口のように思えた。書くことを拒絶し、台湾語を話すことを拒絶する。
しかし今、年を重ねた私は、これがゼロサムゲームではないことを理解している。誰かが勝てば誰かが必ず負けるという対立関係ではない。そうではなく、自分に合った切り口を見つけ、得意なことと不得意なことの間で、自分だけの位置を見つけることができるのだ。
私の字は相変わらず雑だけれど、それでもこれらの筆跡の間には思考の痕跡があり、それが後に面白いアイデアへと変わっていく。最終的に、年を重ねた今の自分が、子供の頃の困惑した感情を解消してくれる。
そしていつか、私は台湾語も取り戻せるかもしれない。その日が来た時、それは誰かの批判や賞賛のためではなく、ただ自分自身のために学ぶのだと願っている。